ダーバンの街で、甲板手と一緒に上陸したものの、私たちはオッカナビックリだった。白人専用の店だとか、この国特有のタブーだとか、知らないことが多いだけに、不安だらけだったのである。
しかし、案に相違して街の中には、特に変わった様子はなかった。人種差別を表す看板や標識も見当たらなかったし、高級ホテルのコーヒーラウンジヘ入っても、見咎められはしなかった。このころすでに、街中でのあからさまな人種差別は規制され始めていたのである。
もっとも、社会の根底まで染み込んだ制度は、そう簡単に拭い去ることができないものである。南ア国内で、人種差別撤廃のための争いが長く続いたことを、ご存じの方も多いことだろう。黒人に国政選挙権が与えられたのは、ようやく一九九四年に入ってからのこと……。テレビでその選挙シーンを報道していたが、何時間待たされても決して投票の列から離れようとしない黒人たちの姿が、印象深かったのを覚えている。

南アがワインの著名な産地であることを、皆さんはご存じだろうか。最初に入植した白人たちが、葡萄作りに適した気候を利用して良質なワインを作り始めたのである。
実際、街のスーパーマーケットヘ出掛けてみると、市民の日常の飲み物として、ワインが山と積み上げられている。売りだし中の品なら、二リッター入りのパックで二ランド(当時のレートで約二百円)そこそこで、驚くほどに安かった。
オランダの東インド会社が全盛だったころ、その貿易船が食料などの補給地として南アの港へ寄港している。その記録を見ると”水のかわりにワインを大量に積み込んだ。などという記述があり、当時からワインが安価な飲み物であったことが判る。飲料水の質が悪かったせいもあるのだろうが”水がわりにワインを飲む”などというのは、いかにも昔の船乗りらしい話である。
そのような訳で、我が”早川丸”でも、夜の飲み物にワインが登場する機会が多かった。船内でのアルコールはビールが主流なのだが、南アを出港してしばらくは、船内にワインの匂いが漂っていたものである。
「サードオフィサー(三等航海士)、冷凍コンテナの警報が出た。ちょっと見に行ってくれんか。中身は葡萄、頼んだぞ」
船橋の一等航海士から、そんな連絡が来るのは、ほとんど毎日のことだった。
冷凍のコンテナの中身は、肉や海産物、それにオレンジや葡萄といった果物類である。特に果物類は、厳しい温度管理が要求されており、摂氏一度の誤差も許されないのだ。だから、もし冷凍ユニットが不調になれば、何時であろうが修理に取りかからなければならない……。それは、神経のすり減る仕事だった。
「また葡萄ですか、今航は多いですね」
おっとり刀で向かうのは船倉の中……。我が”早川丸”は、冷凍コンテナを船倉の中にも積める構造になっていたのである。
冷凍ユニットは水冷式なのだが、コンプレッサーの出す熱までは吸収することができない。おまけに場所はちょうど赤道直下とあって、船倉の中の温度は六十度を越えていた。
汗だくで守った冷凍コンテナの葡萄……。私にとって、南アの葡萄は、ワインよりもこちらの方がはるかに懐かしい思い出である。(川崎汽船(株)一等航海士)
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